ギフテッド報道が抱える問題は、
誤解でも、行き過ぎでも、善意の失敗でもない。
それは、
考えさせないために設計された報道である。
分かりやすさを優先する編集。
反論が入り込まない物語構造。
専門家と当事者を、感動を生むための装置として配置する手法。
これらは偶然の産物ではない。
視聴率と共感を安定して回収するために、
繰り返し最適化されてきた結果だ。
メディアはしばしば、
「理解を広げるため」「社会的意義があるから」と説明する。
だが、その説明が機能するのは、
視聴者が問いを持たないことを前提にしている場合だけだ。
本当に理解を広げるなら、
概念の不確かさ、専門家間の対立、
支援制度の限界、当事者の分断を示す必要がある。
それを示さない報道は、
理解を助けているのではない。
理解した気分を提供しているだけだ。
「天才かもしれない」
「才能を伸ばせば救われる」
「社会が後押しすべき存在だ」
こうした言葉は、
善意の顔をして流通する。
しかしその裏で、
支援からこぼれ落ちる子どもが生まれ、
過剰な期待に押し潰される当事者が沈黙する。
それでもなお、
メディアは自らの語り方を検証しない。
なぜなら、
この物語は疑われにくいからだ。
疑う側が、冷たい人間のように見えてしまうからだ。
だが、
疑われない物語こそが、
最も強力な誘導装置になる。
共感は、思考を止める。
感動は、問いを消す。
そして「良い話」は、
検証を不要なものに変えてしまう。
報じるという行為は、
事実を並べることではない。
社会がどこを見て、どこを見なくなるかを決める行為だ。
その責任を引き受けないまま、
「善意」を盾にするなら、
それは報道ではなく、方向付けである。
UNREPORTEDは、
正解を示さない。
だが、
問いが消される過程を放置しない。
違和感が排除される瞬間を見逃さない。
物語に回収されなかった声を、
記録として残す。
信じるな、とは言わない。
だが、
疑う必要のない形で語られるものほど、疑え。
その報道は、
何を説明しなかったのか。
誰を語らなかったのか。
どの可能性を最初から除外したのか。
それを示さない限り、
その物語は、
理解ではなく統制に近い。
問題は言葉ではない。
「ギフテッド」という概念でもない。
それを疑われない物語として流通させ続けた、
報道の姿勢そのものだ。

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