1. 物語が先に「善」として固定されている
前回のギフテッドの記事を例に挙げる。
ギフテッド報道は、すでに
- 才能を認める=優しい
- 疑問を呈する=冷たい/否定的
という道徳フレームの中に置かれている。
この状態では
「ギフテッドは存在しないのでは?」
「メディアが作った概念では?」
といった問いは、内容以前に
“善意に水を差す行為”として受け取られてしまう。
つまり否定コメントは、
意見ではなく「空気を壊す行為」に変換される。
2. 「当事者」を盾にした議論封じ
否定的な問いは、しばしばこう処理される。
「当事者が傷つく」
「苦しんでいる人を否定するのか」
ここで起きているのは、
概念への批判と個人への攻撃の意図的な混同だ。
メディアが作った枠組みを疑うことと、
当事者の存在や尊厳を否定することは本来別物だが、
両者は意図的に結びつけられる。
結果として、
構造批判は「人格否定」にすり替えられ、
否定コメント=攻撃的、という印象が作られる。
3. プラットフォームの設計が「違和感」を嫌う
YouTubeやSNSのコメント欄は、
- 共感
- 称賛
- 感動
といった感情が揃った反応を評価しやすい設計になっている。
一方で否定コメントは、
- 文脈を説明する必要がある
- 空気とズレる
- 読み手に思考を要求する
ため、「ノイズ」として扱われやすい。
その結果、
通報・低評価・非表示が重なり、
「否定=荒らし」という印象だけが残る。
4. メディア自身が「反論を想定していない」
そもそも多くのギフテッド報道は、
議論を前提に作られていない。
- 定義の曖昧さ
- 科学的合意の不足
- 境界領域の存在
こうした不都合な論点は最初から外され、
感動と理解を前提にした完成品の物語として提示される。
完成された物語に対して否定が来れば、
それは「意見」ではなく「破壊行為」に見える。
否定コメントが攻撃的に見えるのではない。
最初から反論を許容しない構造が、そう見せている。
5. 「疑うこと」が不道徳化されている
本来、疑問を持つことは思考の出発点だ。
だが現在のメディア空間では、
- 疑う=冷笑
- 否定する=共感性の欠如
というレッテルが貼られやすい。
特に「子ども」「弱者」「才能」といった要素が絡むと、
疑問を投げる行為そのものが倫理違反扱いされる。
結果として、
否定コメントは内容を読まれる前に、
「攻撃的なもの」として処理されてしまう。
結論:攻撃的なのではなく「都合が悪い」
否定コメントが攻撃的に見える最大の理由は、
それが感情ではなく構造を指しているからだ。
- 物語の前提
- 定義の曖昧さ
- 利益を得ている主体
そこに触れる言葉は、
どれだけ冷静でも「不快」に見える。
それは攻撃性の問題ではない。
問いが、あまりに正面から核心を突いているだけだ。

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