『ギフテッド』はどのように“物語化”されてきたのか

1. 『ギフテッド』はどのように“物語化”されてきたのか

――日本のメディア報道が切り落としてきた現実

近年、日本のメディアで「ギフテッド」という言葉を目にする機会は急増している。
だが、その報じられ方を注意深く見ていくと、そこにはある決まった「物語の型」が繰り返し再生産されていることに気づく。

生まれ持った認知特性や能力に個人差があること自体は、疑いようのない事実だ。
しかし現在メディアが描いているギフテッド像は、
「努力も葛藤も必要としない、完成された天才」という極端なイメージへと膨らみすぎている。

それはもはや理解を助けるための概念ではなく、
現実から大きく逸脱したフィクションに近い。

2. 「特異な才能」への過剰なフォーカス

多くのテレビ番組やウェブ記事で描かれるギフテッドは、次のような姿だ。

  • 大人顔負けの数式を即座に解く子ども
  • 一度見ただけで膨大な情報を暗記する驚異的記憶力

こうした描写は視覚的に分かりやすく、強いインパクトを持つ。
そのため、報道は次のような演出に収束していく。

  • 驚きを前提としたセンセーショナルな構成
  • 「選ばれし存在」「何もせずとも突出する才能」というヒーロー化

だが、この描き方は重要な事実を意図的に切り落としている。

ギフテッドであっても、
学習には試行錯誤があり、努力があり、環境との摩擦がある。
「何もしなくても天才」という像は、現実にはほとんど存在しない。

それにもかかわらずメディアは、
ギフテッドを「自分たちとは別の次元に生きる存在」として切り離し、
理解の対象ではなく、消費されるエンターテインメントへと変えてしまう。

3. 「生きづらさ」のステレオタイプ化

一方で近年は、「ギフテッドの苦悩」や「生きづらさ」を強調する報道も増えている。
しかしここでも、別の形の物語化が進行している。

  • 「高IQゆえに周囲と話が合わず、不登校になった」
  • 「突出した能力の裏に、強い過敏さ(OE)を抱えている」

これらは確かに事実の一側面ではある。
だがメディアは往々にして、
「天才であるがゆえに苦しむ」というドラマ構造へと単純化してしまう。

その結果、次のような現実はほとんど語られない。

  • 才能が外から見えにくく、「天才」とも「困難を抱える子」とも認識されないグレーゾーンの存在
  • 問題の原因が個人の特性ではなく、画一的な学校制度や評価システムにある可能性

生きづらさは「特別な才能の副作用」ではない。
社会の側が特定の認知特性を前提に設計されていること自体が、問題なのだ。

見えない存在としての「2E(二重に特別な)」層

メディアが最も扱いにくく、結果としてほとんど報じないのが
2E(Twice-Exceptional)と呼ばれる人々である。

2Eとは、高い知的能力を持ちながら、同時にADHDやASDなどの発達特性を併せ持つ状態を指す。

  • 「優れた才能だけを描きたい」メディア
  • 「分かりやすい弱者像」を求めるメディア

そのどちらにとっても、
強みと弱みが同時に存在する複雑さは扱いづらい「ノイズ」になる。

結果として2Eの子どもたちは、

  • 「扱いづらい子」
  • 「わがままな天才」
  • 「能力があるのに努力しない」

といったラベルで片付けられてしまう。

だがそれは、本人の問題ではない。
メディアが作り上げた単純なギフテッド像に、現実が合致しないだけだ。

4. 誰のための「ギフテッド報道」なのか

現在のギフテッド報道の多くは、
文部科学省による支援事業の開始(2023年度〜)といった
政策トピックや話題性の後追いにとどまっている。

だが本当に問われるべきなのは、
一部の「目立つ天才」の成功譚ではない。

  • どのような認知特性が
  • どの場面で
  • どのように学校や社会と衝突しているのか

その具体的な摩擦の記録こそが、
本来、報じられるべき現実ではないだろうか。

5. 「誤認されるギフテッド」が生み出す社会的な害

メディアが作り上げた
「突出した能力を持ち、社会に馴染めない天才」
というイメージは、深刻な副作用を生んでいる。

その一つが、本来ギフテッドとは異なる背景を持つ子どもたちが、誤って「ギフテッド」と認識されてしまう問題である。

人間関係がうまく築けない
集団行動が極端に苦手
指示理解や感情調整に困難がある

こうした特性は、必ずしも高い知的能力と結びつくものではない。
むしろ、環境要因、愛着形成の問題、発達特性、精神的ストレスなど、
別の支援や介入が必要なケースであることも多い。

しかしメディアが流布する
「社会に適応できない=実は天才かもしれない」
という安易な物語は、こうした現実を覆い隠してしまう。

その結果、次のような誤認が起こる。

  • 本来必要な支援や治療が後回しにされる
  • 「才能があるのだから理解されないのは仕方ない」と問題が放置される
  • 本人も周囲も、現実的な改善や適応から目を背けてしまう

これは本人にとっても、社会にとっても有害だ。

適切な支援を受ける機会を失った子どもは、
やがて「能力はあるはずなのに社会でうまくいかない存在」として孤立していく。
一方、社会側もまた、
「適応できない人間は、特別だから仕方ない」という
極めて乱暴な理解に慣らされていく。

ギフテッドという概念は、
社会不適合を美化するための免罪符ではない。
それを誤用することは、
問題の本質を見誤らせ、修復可能なズレを放置する行為に他ならない。

メディアの過度な表現は、
「理解を促す」はずの言葉を、
「誤解を量産するラベル」へと変えてしまった。

それは静かだが、確実に社会を歪める悪である。

結論:誰がこの物語を量産してきたのか

「ギフテッド」という言葉がここまで歪められた最大の要因は、
当事者でも、家庭でも、学校でもない。
それを分かりやすい物語として加工し、流通させてきたメディアの側にある。

才能を誇張し、努力や試行錯誤を切り落とし、
適応できない姿には「天才ゆえの悲劇」という意味づけを与える。
そうした演出は、視聴率やクリックを稼ぐには都合がいい。
だがその代償として、
現実に生きる子どもたちの複雑さは徹底的に無視されてきた。

メディアが量産してきたのは、
理解ではなく、誤認を前提としたラベルである。

そのラベルは、
本来別の支援が必要な子どもを「才能があるから問題ない存在」に見せかけ、
同時に、ギフテッド当事者を「何もしなくても突出する存在」という
現実離れした期待の檻に閉じ込める。

これは無知の問題ではない。
構造的に単純化し、都合のいい像だけを切り出してきた結果だ。

「多様性」や「理解」を掲げながら、
実際には分かりやすさを優先し、
語りにくい部分を排除してきた。
それが日本のギフテッド報道の実態である。

UNREPORTEDは、
この安易な物語化そのものを記録し、問い直すためのメディアだ。

感動も、成功譚も、悲劇も、必要ない。
必要なのは、
メディアが見ようとしなかった現実と、見ないことを選んだ責任である。

さらに見過ごせないのは、
こうした物語に疑義を呈する声が、可視化されにくい環境が作られている点だ。

YouTubeをはじめとする動画プラットフォームでは、
「ギフテッドという概念自体が曖昧ではないか」
「メディアが作り上げた像が先行しすぎているのではないか」
といった、物語の前提を揺るがすコメントほど、目に触れにくくなる傾向がある。

それは必ずしも露骨な検閲ではない。
アルゴリズム、通報文化、コメント欄の“空気”によって、
メディアにとって都合の悪い問いが自然と沈んでいく構造が出来上がっている。
一意見にも関わらず「ギフテッドなど存在しない」といった
メディアにとって都合の悪いコメントはメディアによって削除されてしまうのだ

結果として残るのは、

  • 「やはりギフテッドは特別だ」という同調
  • 感動や称賛、分かりやすい共感だけが循環する空間

そこでは、「そもそも存在の定義は何なのか」「誰の利益になっているのか」といった
根本的な問いは、最初から排除される。

これは健全な議論の結果ではない。
物語に適合しない言葉が、最初から発言権を持てない環境が作られているだけだ。

メディアは、
自らが作った物語を強化する声だけを「世論」として拾い上げ、
それに疑問を投げかける視点を「過激」「否定的」「空気を壊すもの」として周縁化する。

そうして完成するのは、
多様な意見が交わされる公共空間ではなく、
物語を守るためのエコーチェンバーである。

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